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DOCUMENTA 12

ボリス・ゴヴィーユ

事件や危機という政治の提案
近代性、制度、芸術

このプレゼンテーションは生成途中、すなわち自発的にオープンで複数形、発展途中であるような考察を行うことを目指しており、一時的で、不安定、かつ循環しやすい方法論を作ることを最上目的とする。

あいまいな近代性:定住型コスモポリタニズム

多様であいまいであることは、その性質と進化について終わることのない議論を免れ得ないが、近代性は“知”と“創造”の新たな制度となり得る肥沃な考察のプリズムを提供したといえる。ここで私は特にニ側面を取り上げたい。一つ目の要素は次のように表現できる。――近代性とは社会の差別化へと続く長い継続という歴史的過程である。

19世紀末から20世紀初頭にかけての社会学や現代文化人類学の設立以来、社会科学は仕事の分業化(部門化)ということを常に考えてきた。それは職業的世界の組織化、社会生活世界の区域化、「古い」社会から分離していく過程に付随する実践の専門化である。
その結果として目もくらむような知の専門化と教育の特殊化が行われ、もはや全てを網羅した知識、すなわち医学から哲学、数学から芸術といったものを繋ぐ人文主義者や百科全書家的な存在は不可能になってしまった。
こうした変化はポジティブにも捉えられる。というのもそれはある知識分野の自律化に繋がるからだ。例えば芸術世界はこのようにして政治的、宗教的監視を逃れたのだ。このようにして芸術世界は自らが参照される世界となり、自律的に芸術的な価値によって自分自身を定義するようになる。
しかしながら、各分野の解放は社会的世界をそれ自身の中に閉じ込めてしまい、制度的無気力と協調組合主義を繁殖させ、コラボレーション、交換、そして循環というものが必要になる時においてさえ横断的実践を妨げることで、能力というものについての適正基準を税関法のようなものに変えてしまった。
知の流動性は速度を緩め、妨げられているように見えるのだが、近代性がこうした循環の技術を繁殖させている中ではそれは逆説的(奇妙)でさえある。美術系の学校では、こうして能力分野――絵画、写真、建築、などなど――による部門を設立する。こうしたことは、細分化し、制度化し、ヒエラルキーをなす全ての組織に当てはまる。
このように制度化され、社会化された境界を越えて知と実践を循環させることの難しさは、近代性が「越境的実践」に一様に対抗するものであるという障害から来ている。これはここで協議したいと思う近代性の二つ目の要素だ。近代性は国家の構築と国民国家の出現、すなわち国境や統治権といった古い問題提起を新たに結晶化させたものと固く結ばれているのだ。 ここから近代性は「規律の時代」(ミシェル・フーコー)、流動性の抑制、身体の抑制、さらには「世界地図の終焉」(ハッキム・ベイ)、全ての土地が国家的統治権を逃れられないことへと繋がる時代なのだ。
国家的、言語的、文化的な囲いの効用を行使しながら、近代性は外国人と無国籍者という問題を力ずくでテーマ化する。その結果は、特に20世紀において悲劇的で荒廃したものであった。
しかしそこにおける過程は未だに両義的である。というのも愛国(国民)主義が花開きつつ、地域間や社会間の相互依存連鎖の伸長と物理的・非物理的コミュニケーション方法のさらなる改良は、歴史上に例を見ない世界的規模での相互依存状態を作り出しているからだ。
精神性や言語の後退は、国境を越えた交換の必要性を、単なるコラボレーションや他者性の発見というよりも征服者と敗北者の競争として捉えることになる。こうして愛国主義はさらに攻撃的になり、植民地主義はさらに反世間的なものになる。

我々が到達した「急進的近代性」(ウルリッヒ・ベック)は、国境と制度的境界を越境することについて二つの言説を発展させてきた。
一つ目のネオ・リベラルな言説とそれに支えられた現代的グローバリゼーションは、境界を昔風なものと捉える。しかしながら、それは商業的な交換にのみ正当性を限り、さらには全ての交換を、それが例え文化的な交換であっても商業的な交換へと変化させてしまうのである。またそれは競争原理や占領化、画一化といったものから脱しておらず、保身主義から安全保障的封鎖に至るまで、その原理自身においてあらゆる種類の違反を容認する。こうしてグローバリゼーションは、「国家的政策」と全く切り離されることもなく、国家的論理とグローバリゼーションの過程は対峙するどころか、歴史の流れの中で互いに寄り添い、強化し合ってきたのだ。(ジャン・フランソワ・バヤール)

もう一つの、もっと異端な言説は「コスモポリタニゼーション(世界主義化)」(ウルリッヒ・ベック)である。それは18-19世紀の哲学的なコスモポリタニズム(世界主義)の倫理的立場の超越(止揚)を企てるもので、世界規模での実際的コスモポリタニゼーションに基づいている故に、現実的な言説となる。同時にそれはグローバリゼーション、支配、統治といった言説の代案でもある。世界的な相互依存は捕食理論の延長ではなく、交換と協力理論の延長としてみなされる。循環するもの、というより循環すると言われているものは、経済的、財政的、安全保障に関する流れというより、知、越境的実践、脱領域化された考え方(しかしながら同時に技術的、環境的、テロリズム的な危機)なのである。
コスモポリタニゼーションは国家的空間を廃止するのではなく、非正統的な(異端な)方法で国際性と地域性を連結するのだ(定住型コスモポリタリズム)。定住型コスモポリタリズムは、多数決によるエリート向けの言説に特権化されない循環を、というよりは特に少数派的資質、抵抗の実践、異端的想像界に託された循環を考える機会を与えてくれる。

我々は近代性のあいまいさの後継者なのだ。そして、しばしば特殊な言語での考察を続けるか、あるいは母国語での繊細さを時には失うことになる貧しい英語でのコミュニケーションを取ろうとする。我々は国家的空間、文化的領域、職業的宇宙、社会的世界といったものへと属し続け、自らが属する社会や制度的定着からくる考え方とともに行動し続ける。そして逃亡や彷徨といった不安を恐れ続ける。というのも我々は、木-人間、根-人間だからである。しかしながら今や我々は、一番近いものと遠いものが連結する使命を持つ世界に浸っており、ここでは祖国喪失と(新たな)遭遇の過程にそそのかされ、領域や制度の硬直化した理論、職業的専門家や知的閉鎖性を超越しようとする。我々はカヌー(丸木船)に乗った人間なのだ。

こうして我々は二重の相続といえるものを扱うことになる。メラネシア社会(ジョエル・ボヌメゾン)のような、木-人間でありながらカヌーに乗る人間であり、木材と定住の安楽さから、カヌーの材料と旅するエネルギーを作り出す社会ではどのように存在すれば良いのか?ある意味ではコスモポリタンとして現代的でありながら、他方で侵略的グローバリゼーションや国境コントロールという現代性から逃れられるのか?どのようにすれば「定住型コスモポリタニズム」(シドニータロー)を創始して、越境的で異端的な実践を根付かせることができるのだろう?

危機の体制と事件への柔軟性

ここではさらに次のような仮説に進みたい。定住型コスモポリタニズムは健康な歩みであるどころか、「グローバルな相互依存という危機」(ウルリッヒ・ベック)であり、地域性とグローバル(国際)性がおおよそ分離不可能で相互関与し合っている状態なのだ。故にコスモポリタニズムは異端の伝達手段であり、そこでは地域的特殊性に基づいた循環と越境という二つの方法が対立するどころか互いに強化し合っている。この賭けに答えようとする知と創造の新たな機能は「グローカル」(グローバルとローカルを連結させる)となるはずである。

こうした機能となり得るものを想定するには、芸術とは相容れない知的世界――そこでは概念の越境的循環がすでに実践されている――からの問い掛けを承認する必要があるだろう。こうして「危機モデル」から芸術の制度を再問題化する手段を借用するのだ。危機という言葉は、ここでは劇的もしくは病理学的な意味で用いられていない。それはどちらかというと制度や社会における通常の機能との決別を企図する。危機とはすぐれて「異端の循環形態」なのである

危機は「不確かな体制」であり、仕事の部門化と決別する「非専門化」の運動である。それは通常はすきのない社会の分野間において、問題性、考え方、実践、賭け金、危険といったものを循環させる。(ミッシェル・ドブリィ) さらに通常は因習的な考え方、暗黙の了解、明白さ、ドクサ(憶見)、制度的無気力などの上に成り立っている部門化した自己参照的世界はいきなり大混乱に陥らされ、新奇な用語で自己言及するよう仕向けられるのだ。賭けの部門化された定義は、突然今まで通りには考えられなくなるという意味において「予測不可能な決別」(エリック・ファッサン、アルバン・ベンサ)を作り出す「新奇な体制」へと取って代わられるのだ。それ故に、危機は全てが可能になる瞬間であり、そこでは想像力が花開き、社会的関係においても、まずは柔軟性や流動性が先行する。近いものと遠いもの、互いに離れた世界で、網の目と共鳴が張り巡らされる。不協和音が起こり、こうした実践と不均一な知覚から異端なものが生まれる。

危機とはつまるところ、既に存在した可能性の障壁を取り除き、手荒い再調整を行うことでしかないのだ。それは定住すること(根を生やすこと)と旅することを短い期間と長い期間において荒っぽく再配置してみせることなのだ。しかしながらそれは一騒動し、進路変更させ、当惑させる。危機の本当に現代的なあり方とは、「出来事への開かれ」、「非-永遠性という才能」であり、すなわち帰属性、定められた役割、習慣、義務といったものから逃れて未知のもの、遭遇、新しさといったものを承認することなのだ。危機には正に機会の政治性といったものが含まれている。――出来事に開かれた知性とは「到来した瞬間」の知性なのだ。
しかし定住型コスモポリタニズムにおけるように、こうした既成の考え方や生き方に対する永遠の抵抗、また事件への開かれた状態とは、資金があり才能と技術もありながらもそれらを固持せず、必要な場合には切り離すことができるような人達にとってより可能なものなのだ。我々は裸で旅しないが、確かに武装して旅したりもしない。
さらにコスモポリタニズムがその使用方法を知っている者たちの間でのみ成功するのではなく、彼らに利益をもたらしつつも、不安定で少数派の共同体にも到達することを望むなら、コスモポリタニズムを権力の及ばない賭けにのみ及ぶ非人格的な過程としてではなく、制度化し増殖させなければならないのだ。

教育の中心的役割

私見ではそれ故に、新たな知と創造の機能は急進的近代性が定住化コスモポリタニズムに課した挑戦を取り除くことであり、そのためには危機モデルを応用しなければいけないのだ。しかしどうして芸術教育の制度を、この挑戦を排除しようとする場へと急遽変化させる必要があるのだろうか?――なぜならそれはピエール・ブルデューが書いたように「教育のシステムは差別化の社会において、記述や教育制度の無い社会における『分類という原初的な方法』より見掛けは洗練されているものの、それに同等なシステムを作りだし、さらに再生産していくものだからである。」
我々の思考範囲と異端の資質に対して張り巡らされる警戒線は、その「根」を、部分的にではあるが力強く、学校教育と大学の社会共有化に根ざしているのだ。故に、この結節レベル、特に芸術教育の制度的レベルにおいて抵抗することが必要なのだ。それはよりよく旅するための柔軟な知性や流動的な視力であり、芸術はそこにおいて多義性が刻印された知識体制を明確に広げてみせる。こうして、芸術は定住型コスモポリタニズムにある武器を与えるが、それは一番良い局面にある近代性から略奪して来たものなのだ。さらには、芸術は国家にしろ社会的システムにしろ、そうしたものの境界に宿る近代的論理に従わないようにしなければならない。さらには、専門化に特有の硬直化や、社会的差別化に不可欠な制度的無気力と闘わなければならないのだ。別の言い方をすれば、他律の論理(政治、社会性、宗教、等々)に比べれば自律性を保ちつつ、「非-専門化」という形式へと自らを開くことが重要なのである。しかも芸術自身としての才能と、他分野や別種の知識と高め合い協議する能力に支えられつつ、そこから考え方、形式、概念、実践などのノマド的ベクトル(仲介物)を作り出さなければならない。

掛けられているものは裁断法であり、非常に大きな仕事である。社会的制度とは結局のところ、異端的に考えながらも正統的に行動し、グローバルな考えをしながら地域的(ローカル)に行動し、こうした二つのレベルを異種交配させなければいけないという意味において、ある種精神分裂病的な生き方へと向かうものなのだ。他方で社会的制度の古い法律は、予言された日――想像力を開花させ、可能性の開示を行うという危機体制――の下に、慣習の中で硬直化したお役所仕事的なもの、あるいは伝統を繰り返して唱える神父の身体性として現出する。
もし、真正の「奇妙さの政治」を発展させるのに拠り所となるような首尾一貫した制度的答えを具体的に練り上げたいのであれば、我々が一体どんな近代性の中に浸っているのかということを理解しなければならない。


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